04/01/06
 あちらの事情、こちらの思惑―建築史、都市史をめぐる断章
 
村松 伸

一、建築史、都市史とは何か?

 中国やアジアの建築、都市の歴史を研究していると言うと、いまでも「一般史」の人々からは際物扱いされる。本来、「一般史」などというのは存在せず、そこで研究していることは、ある国のある時代のある地区のある政治、経済、社会の微細な現象の解明に過ぎないのだけれど、きっと建築や都市というのはそれ以上に些細な領域に見えるのだろう。建築史を「一般史」に奉仕する付属学問だと見なしたり、建物や景観を通史の挿絵としてしか理解できなかったりする「一般史」の研究者はいまでも数多く存在している。一方で、現在起こっている都市の現象や都市建設にまったく無知、無関心なのにもかかわらず、通俗的都市理解でもって、都市史を研究している「一般史」の研究者がなんと多いことか。でも、まあ、経済史や政治史にしても、経済とは何か、流通とは何か、政治とは何かをその専門分野の最前線から理解して取り組んでいる「一般史」の研究者はほんの一握りしかいないのであるから、都市史に関しては無理からぬことではあろう。

 では、建築史、都市史とは何をめざすものなのであろう。それは、「人類がこれまでに作り出した建築や都市、土木構築物、景観などを、現代のわれわれの関心で以って、われわれの視線によって発掘し、今後の建築、都市のありかたに直接的、間接的に貢献すること」、であり、できうるならば、「建築や都市、土木構築物、景観の変化を見ることによって、人間とは何か、文明・文化とは何か、等々について新たなる発見を得ること」でもある。

 ここでの要点は、

   
1) 古今東西の未知の建造物や空間、風景に対する好奇心を満足させることがまずあるのだけれど、それだけではなく、
2) それらの発生のメカニズムを、けっして建築学や都市計画学、社会基盤工学などに閉じこもらず、あらゆる原因(政治、経済、社会、・・・・)を研究対象とすること、さらに、
3) それを現在の人類の環境をよりよくするため、間接、直接的に役立てるという志を常に胸に秘めて研究に望み、一方で、
4) 建築や都市や構造物が、世界を変えたメカニズムを発掘し、それによって世界を間接的、直接的によりよくしていくことでもある。

 建築史、都市史の専業研究者たちも、「一般史」の研究者たちも、この領域の目標をえてして、1)や2)の閉塞的な範囲に閉じ込めよう(閉じこもろう)としがちである。だから、まずは以上の既成概念を払拭することが大切なのである。

二、どんな資質が必要だろうか?

 したがって、建築史、都市史の研究には、

    1) 建築、都市を空間的に体感できる能力。
2) それを感動できる感性。
3) 多くの空間体験があり、それを指標にして、建築、都市の好き嫌いがはっきりと言語化できる能力。
4) 図面、地図、写真などビジュアル資料を解読できる能力。
5) 研究成果を図面、地図、写真などとしてビジュアルに表現する能力。
6) 現実の都市学の世界、建築学の世界の状況に関する知識とそれがどうあるべきかの判断力。

がまず、必要である。それに続いて、対象となる建築や都市で、関心のある側面を明らかにするための、

    7) 史料探査能力。
8) 史料読解能力。
9) その他必要なる調査能力。
10) 感動を的確に伝えられる文章表現能力。
11) 広い視野と教養。

は学んでおく必要がある。一般的に言って、建築学を学び、その学問領域の中で建築史、都市史を学んだ研究者は、1)〜6)が得意で、7)〜10)もそれなりにあるけれど、「一般史」よりあきらかに劣る。「一般史」から建築史、都市史をやろうとする場合、7)〜10)は当然ながらそれなりにあるけれど、1)〜6)がアマチュアなので、往々にしてピンとはずれになってしまう。11)に関して言えば、「一般史」側が圧倒的に強い。つまり、建築学をプロとして学ばない限りこの領域への参入障壁は高く、でも高い壁の中は地味肥沃なる広大な平地であるにもかかわらず、ほとんど耕されていないといった比喩が適しているだろう。以上の状況が相互に偏見や卑屈やらの溝を作っている原因のひとつとなっている。

三、目の前に広がる大きなフロンティア

 日本建築史、都市史は長い研究の歴史が日本国内にあるし、西洋建築史、都市史は本国や西洋諸国で微に入り、細を穿った研究が山のように積み重なっているのであるから、新たに大発見をするような研究のダイナミズムに遭遇することは簡単ではない。その点、非西洋の都市や建築の歴史はもう感動の宝庫で、フロンティアが眼前にどこまでも広がっていてさまざまな研究がいまでも可能となる。

 ぼく個人が近頃得た感動は、バンコクがいかに都市として「混乱」しているかの経緯を学生達とともに解明できたこと(村松伸+ARAC「陸に上がったナーガ」、『10+1』33号、INAX出版、2003年)、華人たちのネットワークの姿を都市や建築を通じて明らかにできる手口が見えかけてきたこと、インドネシアのメダンで高床式住居がいかに近代とともに変容してきたかがわかりつつあること、広東省開平県に現存する1833棟の華僑が建てた楼式城砦の調査が始まること、ウズベキスタンのサマルカンドやコーカンドにロシアやソビエトの植民地建築が山のように残っていることを「発見」し、その調査が軌道にのりつつあること、東アジアの現代建築家たちの活躍をなんとか日本で展覧会に持っていけること(2004年2月末からギャラリー間での「承孝相と張永和展」)、さらに付け加えれば、これらの知見をまとめてアジアの都市や建築の「近代」とは何であったかなどをまとめつつあることなどである。多くが「つつ」なのも、たしかに、どれもやりたいというぼくの無節操さのせいではあるけれど、あそこにもここにも面白いことがある故でもある。

 あれもこれもやってしまうもうひとつの理由は、人数が少ないことだ。建築学からの建築史、都市史を学ぶ人間は、『建築史学』の購読者数から推定すれば400人前後、非西洋の建築史、都市史だけだと30人くらいだろうか。中国建築、都市史が4、5人、ベトナムが2、3人、タイは2、3人、インドネシア・マレーシアが3、4人、インドは4、5人、中東は5、6人、中央アジアは1人、モンゴルも1人、アフリカは0といったところで、これは、深い蓄積や切磋琢磨がないという弱点にはなるけれど、「一般史」やそのほかの地域学と積極的にかかわっていかなければという気概を生み出し、同時に、ひとりで広いテリトリーを研究領域としてもとやかく言われない。国民国家の歴史学が破綻し、さらに東南アジア学、南アジア学、中東学などの地域学でも狭いと感じられている現在、この地域学の範囲さえも越えられる建築史、都市史は、今後の進展に有利な条件が備わっていると言えるだろう。国境も地域も越えて、ひとりで比較学を実践して初めてわかることはいたって多いのだから。

四、2004年の関心事

 ちなみに、ぼくの節操のなさは自分でもあきれていて(だから「一般史」からも、「一般史」を神格化する建築史、都市史からもあまり相手にされないのだけれど)、中国に始まって、ベトナム、タイ、インドネシア、モンゴル、・・・・と拡大の一途を辿っている。とりわけ、18世紀末以降の建築や都市の変化を追っていて、この領域は誰もやっていないから、調査のネゴシエーションから始まって、調査・研究の実施、成果の発表の枠組み作り、国際会議の主催など、とどこまでも手作りをしなくてはいけない。兵站は随分延びきってしまっていて、果たしてすべてで大きな成果が得られるかは心もとない。

 でも、所属する研究室でも何人かの研究者が誕生しつつあり(村松伸編『アジア建築研究』、1998年、INAX出版、村松伸編『建築家たちの〈アジア〉発見』、2004年、風響社などを参照)、さらに留学生を通して各国へとこの研究、さらに保存、再生の運動は拡大しつつある。2000年に創設したmAAN(modern Asian Architecture Network, www.m-aan.org)は、わずか数年の間に随分成長して、アジア全域を覆う研究者、保存家、建築家のネットワークとして機能している。アジアの近代建築の歴史を研究する場合、もはやここに関係しないと難しいだろう。

 アジアの都市に関して言えば、2003年末から、日本学術振興会が主管する「人文・社会振興プロジェクト」のひとつとして、「都市の持続性に関する学融合的研究(代表:村松伸)が始まった。これはアジアばかりでなく、人類と都市に関して文明史的に研究するという大風呂敷の研究プロジェクトで、ちまちまして、分散していたこれまでの都市研究を一挙に融合しようという計画である。2ヶ月に一回、異分野の研究者のフォーラムを開催し(第一回は、モンゴルの都市研究、第二回は、イスラムの都市研究)、フィールド調査(ウランバートル、サマルカンド、テヘランなど)を実施し、都市関係のあらゆる情報のデータベースを構築しようとするものである。始まったばかりでどうなることやらとは思うけれど、ぼくは50代の前半をこの仕事にかけてみようと思っている(www.sennen-toshi.org)。ちなみに、東京大学の21世紀COEでも都市関係のプロジェクトが2003年に立ち上がり、ここしばらく、(アジアの)都市の研究は進展が見られるはず。

 このようなことを粛々とやっていけば、冒頭に述べた、建築史・都市史の目標の4)「建築や都市や構造物が、世界を変えたメカニズムを発掘し、それによって世界を間接的、直接的によりよくしていくこと」にやがてはつながっていけるのだろうか。でも、やっぱり、飽きっぽいこのぼくは、途中ですべてを放り出し南の島に隠遁してしまうかもしれない。

(アジア建築史・都市史、東京大学生産技術研究所助手)